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| 琴弾山頂上から銭形の謎を推理しよう | |||||||
| 琴弾山の頂上から燧灘を眺めると眼下に観音寺のシンボル、寛永通宝の大きな姿が目に入ります。 なぜ、このような大きな銭形ができたのでしょう?いくつかの説があります。 その1 寛永10年(1633年)丸亀藩主、生駒高俊の領地巡視のおり、地元の人々が歓迎のため一夜で造り上げたとのこと。しかし、but、寛永通宝が江戸幕府により鋳造されたのはそれから3年後だとのこと。それ以降にも明確な記録が残っていません。 その2 それ以外の説は種々ありますが、どれも荒唐無稽なもののようです。 例えば、瀬戸内海の海賊、村上水軍ともいいますが、の密貿易基地の象徴。 あるいは、徳川に敗れた豊臣の残党が、豊臣家再興を誓ってシンボルである「瓢箪」を掘ったが、発覚を恐れて銭形にした。 または、伊能忠敬が沿岸の測量の際、設計し地元民が掘った。 はたまた、明治9年(1876年)観音寺村が村内名所を県知事に報告した際にも銭形の記述がない。したがって、それ以降誰かが思い付いて造った。 その3 テレビの時代劇番組「銭形平治捕物帳」のタイトルバックで、銭形平治がこの銭形の前で賊を投銭で退治をしていました。 これは銭形の親分が博徒である森石松の金比羅代参に付き添ってきましたが、事件が起き、賊を追って琴平から観音寺まで追走し、平治親分はついにここで賊を捕らえることに成功しました。スーパースター神田明神下の親分の大切な武器にちなみ親分の偉業を讃えて銭形を掘った。 神田明神下といえば、いまは世界の電器街、秋葉原付近です。そこに住む親分が観音寺まで来て賊を捕らえるにはちょっと無理があるようです。 いろいろ推理するのは楽しいこと。あの浮き世絵師、東洲斎写楽が誰であるか学者、文豪、市井の研究者たちが諸説を開いています。 大きな寛永通宝を琴弾山頂から眺めながら、いろいろと思いを巡らせてみてはいかがでしょう? |
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| 銭形の謎 | |||||||